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陶酔はきみだけでない睡蓮が・・・(前川佐重郎)
【 2016/10/09 13:41 】
陶酔はきみだけでない睡蓮がぎつしりと池に酔ひしれてゐる
前川佐重郎/『天球論』H14

この歌を読んだ時、別世界に連れていかれた気がした。
黄色い芯を持つ目のさめるような色の睡蓮は、池一面に葉を広げ花を咲かせている。
その情景に心を奪われた。
しかし、その陶酔感は見た人だけではなく睡蓮自身も持っているという。
陶酔というと、ただ惚れ惚れとしているだけに思えるが、どうやらそれだけではないらしい。相手を変えてしまう力があるようだ。

以前、NHKのある番組で着物コーディネーターの池田重子さんの言葉が紹介されていた。
「自分が酔わなければ、人を酔わせられない」
この言葉を紹介した美容家のIKKOさんは、次のように続けた。「自分に酔うのとは全く違う」。
なるほど、自分酔うのは独りよがりの状態だ。しかし、自分酔うのは、どこか意志があり外の世界に働きかける力がありそうだ。

この歌の睡蓮も、自らが酔いながら人を魅了している。そこに、見た人を魅惑的な世界に引き入れて一体化させようとする睡蓮の力を感じるのだ。そしてこの歌自体も、読者をそのような睡蓮の世界へ引き込んでいく力をもっているのだ。
(『日本歌人』H28.9月号「私の前川佐重郎」より)


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青空の井戸よわが汲む夕あかり…(山中智恵子) @現代短歌の鑑賞101
【 2015/03/06 21:36 】
青空の井戸よわが汲む夕あかり行く方を思へただ思へとや
山中智恵子/『みずかありなむ』S43

歌謡曲の作詞家、松本隆の歌詞にこのようなものがある。

夢遊病の街へと
飛び込みするポーズ
生きることに少し飽きかけているんだ

下り傾斜だからね
手を広げて走る
運がよけりゃ ふわり 飛べるかもしれない
(ORIGINAL LOVE 「夜行性」)

ふわり。
飛べるはずはない。
けれど、歌になると飛べそうな気がするのは、どうしてだろう。
飛んでいる幻想に、わくわくしてしまうのはどうしてだろう。

掲出歌も趣は異なっているけれど、なんとなく茜色の空から何かを汲みあげることができそうな気がするのだ。
幻想が不思議な実感を持っているのだ。

青空の井戸。

それは空にある光の源泉のようなものだろうか。
あるいは、井戸の水を汲んだ時の、空が映っている水面の揺らぎを指しているのだろうか。

いずれにしても、夕あかりの「行く末」は夜である。
空も地上も井戸もそして「われ」も闇に包まれる一体感がそこにはあるだろう。
そして、下句「ただ思へ」のリフレインが、何かの祈りのように響いて奇妙な安堵感を覚えるのだ。

幻想から奇妙な安堵感へ――その実在しないのに何かがあるという信頼。
掲出歌は、そのような世界を詠み手と読み手が共有してゆく歌だと思う。


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片恋よ 春の愁いの一日を・・・(服部真里子)
【 2015/01/31 22:49 】
片恋よ 春の愁いの一日をティッシュペーパーほぐして過ごす
服部真里子/『行け広野へと』H26

無自覚の情念というものがあるとすれば、それは掲出歌みたいなものかもしれない。
狂おしさや激しさが表出しない、自分で気づくことができない情念。

手持ち無沙汰な一日。
だらだらと何とはなしにティッシュペーパーをほぐしたりする。
何かをやりたいわけじゃない。
だからこそ、心に引っかかっている片恋ばかりが気になってくるのだろう。

「片恋よ」という恋そのものへの呼びかけで、手持無沙汰な心の中に片恋のあれこれが目一杯に広がってくる。
恋のはじまりから今までのすべての日々。それをひとつずつ丁寧にひらいてみたりする。

一方でその瞬間も「君」は恋人と充実した時間を過ごしているのかもしれない。
2枚で1組となるティッシュペーパーをほぐすという行為は、無意識にその関係をほぐしてしまいたいという暗示でもあるだろう。

もちろん春ののどかな一日である。その愁いは、花びらが舞うように、ティッシュペーパーが風に翻るように、軽くやわらかい。
けれど、自覚はなくてもそこには確かに行き場のない情念があるのである。


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たちまちに君の姿を霧とざし…(近藤芳美) @現代短歌の鑑賞101
【 2015/01/26 22:59 】
たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき
近藤芳美/『早春歌』S23

音楽がある人のイメージと重なるということはたまにある。
ある曲を聴いて、その人を思い出すという具合に。
メロディが引き金になって、情景や人物が生き生きとよみがえるのだ。

だけど、掲出歌は逆だ。
君の姿が消えてゆくときに、音楽を引き出している。
これはどういうことだろう。
映画で、別れ際のシーンにしっくりくる音楽が流れている感じだろうか。
でも、きっとそこまで作為的ではない。
「君」にしっくりくる楽章を「われ」は無意識に選び、思っているのだ。
それはある意味、彼女のイメージの美化ともいえるかもしれない。
恋のはじまりである。

不思議なことに、この音楽と人の引き出しあう関係は、時間が経ってゆくにつれ逆転するようだ。


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黄金結界(『うた新聞』11月号)
【 2014/11/05 15:05 】
うた新聞11月号の特集「色彩の歌」に「黄金結界」3首と100文字エッセイが掲載されています。もし手にする機会がありましたら、読んでいただけたら嬉しいです。


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シェルターのように敬語をつかわれて・・・(俵万智)
【 2014/09/17 00:57 】
シェルターのように敬語をつかわれて牛タンネギ塩じんわりと噛む
俵万智/『オレがマリオ』H25

この歌に魅かれたのは牛タンが入ってるからじゃないの?と言われれば、そうですというしかない。
仙台人にとってきっと牛タンはちょっと特別な位置づけの食べ物なのだ。

「せっかく仙台に来たんだし」
牛タンは、紹介がてら遠くから来た人と食べに行くことが多い。
そして自ら進んで食べに行くことは少ない。
仙台の象徴でありながら、ローカルになりきれない、微妙な距離感。

そんな牛タン屋での食事は、相手との距離をもあらわしている。
それは、相手が遠方から来ているという物理的な距離を表すとともに、関係の遠さも象徴している。
観光のようにやってきて、帰っていく人。

シェルターのような敬語というのはかなしい。
ある一線、それも強固な一線をひかれて向き合っているのだ。
そこから先に動けないのなら、今を噛みしめるしかない。
そのしょっぱさ。

そんなもどかしさを詠むならば、やっぱり「牛タンネギ塩」なのだ。
モツ味噌煮込みでも、吉次の炭火焼でもない。
そう考えると、一見かなしさとは無縁そうな牛タンに、不思議なものがなしさの一面があることに気付くのだ。


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制服にセロハンテープを光らせて・・・(山崎聡子)
【 2014/08/25 10:05 】
制服にセロハンテープを光らせて(驟雨)いつまで私、わらうの 
山崎聡子/『てのひらの花火』H25

「箸が転んでもおかしい年頃」という言葉をふと辞書で見たときに驚いた。
思春期の女子に対していう言葉だという。
女子だけ?
あの、くだらないことで、理由もなく、とにかく可笑しかった時代。
あれって男子も通過するものかと思っていた。

掲出歌はそんな「箸が転んだ」ひとコマだろう。
制服にセロハンテープがくっついてる。
それだけでいくらでも笑えてしまう。
この感じ。

社会とか、周囲とか、そういうことは(驟雨)。
カッコ書きで、外野。
たとえ外で激しい雨が降っていても、お構いなくわたしたちは笑っていることだろう。
とにかく、わたしたちの可笑しさ、わたしたちの時間、なのだ。

そういう感覚に身に覚えがあるひとも少なくないと思う。
掲出歌で一気に当時に引き寄せられていくのだ。

思春期は危うい。
(驟雨)から離れた「わたしたちの世界」で、笑うために、ちょっと冒険するために、箸を転がす。同歌集にはこんな歌もある。

 塩素剤くちに含んですぐに吐く。遊びなれてもすこし怖いね。

それはなんて無防備で魅惑的な危うさだろう。


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温泉虫(ユスリカ) (『現代短歌』8月号)
【 2014/07/28 22:29 】
『現代短歌』8月号「結社の力Ⅱ」の結社推薦歌人特集に短歌「温泉虫(ユスリカ)」7首が掲載されました。日本歌人に入ったのは、前川佐重郎の『彗星紀』の一首を知って、この人から短歌を習いたい!と思ったのがきっかけです。
もし手にする機会がありましたら、読んでいただけたら嬉しいです。 

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たつた一人の母狂はせし夕ぐれを…(前川佐美雄) @現代短歌の鑑賞101
【 2014/05/21 22:16 】
たつた一人の母狂はせし夕ぐれをきらきら光る山から飛べり 
前川佐美雄/『大和』S15

狂気の一番美しい瞬間がこの歌にはあるように思う。

不甲斐なさとか、やるせなさとか、絶望とか。狂気の引き金となったすべてをひっくるめて、身を投下する瞬間。
マイナスの感情が臨界点を迎えたとき、喜怒哀楽や倫理観を超えて、一瞬、ほんの一瞬だけ、きらきらした悦楽が入り込むのではないか。

この歌に共感できる、とは言いにくい。
だけど、例えば、言いようのないやるせなさに襲われたとき。
私はこの歌に親しくなれる。

「きらきら光る」なんてわかりやすすぎる単純な表現が、その狂気と相まって、解釈を超え、乱れた気分にぐっと入り込むのだ。
もしかしたらその時の私は、狂気に近づきたがっているのかもしれない。
一枚の絵の様な、きらきらした瞬間で止まっている狂気に。

だけど、現実は瞬間を止めることはできない。
最後の戯れのように、自分のやるせなさが歌と親しんだあとは、また前を向いて進んでいくだけだ。
掲出歌は、負の感情のやどり木のような歌とも言えるかもしれない。


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記憶の遊び場(『うた新聞』5月号)
【 2014/05/08 22:13 】
『うた新聞』5月号「ライムライト」のコーナーにエッセイ「記憶の遊び場」を寄稿しました。地名の入った歌についてのあれこれ。場所の記憶は人の記憶?もし手にする機会がありましたら、読んでいただけたら嬉しいです。

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庭のうめ花二三輪のこれるは…(上田三四二) @現代短歌の鑑賞101
【 2014/04/17 22:00 】
庭のうめ花二三輪のこれるは咲きそめのころに似てうひうひし 
上田三四二/『照徑』S60

年をとると、子供のようになるとよく言われる。
きゃらきゃらと笑う母。偉大な駄々っ子に変貌する父。
そういうのを垣間見たとき、老いを感じずにはいられない。

幼児性から老いを見出すとはどういうことだろう。
掲出歌では、「うひうひし」のあどけなさを、散り際の梅に見出すという。
もし、時間をかけて経験を積むことで人格ができあがるのであれば、さらに時間をかけて経験を手放していくことで元に戻るということか。
まさか。 
 
似て非なるもの。それがうめの花の咲き初めと散り際であり、幼児性と老いではないか。
そう考えるとき、この朗らかな詠みぶりと初々しい散り際のうめが、急に仮面をかぶった危うさに変貌して見えるのだ。


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「ナイス提案!」「ナイス提案!」うす闇に…(堀合昇平)
【 2014/04/12 22:00 】
「ナイス提案!」「ナイス提案!」うす闇に叫ぶわたしを妻が搖さぶる 
堀合昇平/『提案前夜』H25

掲出歌の「わたし」は、「ナイス」といいながら、むしろ夢にうなされている。
その"心"とハイな"気分"の食い違いに、自分ですら違和感を持たなくなっていく怖さ。
それはそのまま現代のビジネスマンの心のありようのようで、少しヒヤリとさせられる。

「文化祭前夜」という社風をあらわす言葉がある。
あの、夜遅くなってますますテンションが上がる、不思議な感覚。
高校生なら、一年に一度の文化祭にむけ、準備に全力投球する姿。
だけど会社であれば、仕事に追われた連日の深夜残業の中、妙に明るく社内に不思議な一体感がある感じ…を指すように思う。

この「文化祭前夜」を糧にできる人もいれば、枷になる人もいる。
だけどみんな明るすぎて一見区別がつかないのだ。
明るくハイテンションのまま病んでいく光景。
そこに、この歌につながる怖さがある。

掲出歌では、妻がその泥沼のような夢から「わたし」を引き上げるように、揺さぶり起こす―――
そういう意味でこの歌は救いがあるのかもしれない。
だけど、朝になればまた…
夢も現も心も気分も、ハイなところで渾沌としている。
それが現代なのだというように、掲出歌はものすごいリアリティを持って迫ってくるのだ。 


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わたしよりうつくしい眼のそのひとに…(大森静佳)
【 2014/04/05 11:01 】
わたしよりうつくしい眼のそのひとに如雨露のような性欲だろう 
大森静佳/『てのひらを燃やす』H25

多すぎず、少なすぎず、ある花をきれいに咲かせるのに十分な如雨露の水。
そして、花に向かってだけ注がれる如雨露の水。
花はそれを知ってか知らずか、すくすくと育ち、うつくしく花を咲かせている―――
 
性欲が愛情とイコールとは言えないけれど、それを強烈に結び付ける断定を掲出歌は持っている。
それは、彼のまなざしが掲出歌に隠されているからだろう。

嫉妬とか羨望を知らないような、うつしい「そのひと」の眼。
彼女の眼の先に彼のひたむきなまなざしがあることを、「わたし」は感じ取っているのだ。
そしてそれは「わたし」がこの恋愛のかやの外にいることも意味する。
完全な片思い。

でも、だからこそ。
鑑賞者だからその美しさを詠むことができるのだ。花は花を詠むことができない。
そう考えると、短歌に恋の成就の歌よりも、叶わない恋の歌が多いのもうなずけるような気がしてくる。


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握り飯をジンジャーエールで流し込む…(斉藤真伸)
【 2014/04/01 18:07 】
握り飯をジンジャーエールで流し込むわが飲食を犬が見みていた 
斉藤真伸/『クラウン伍長』H25 

ジンジャーエールが生姜の飲み物だと知ったのは大人になってからだった。
それまでは"ジンジャー”を気にも留めず、ジンジャーエールとは単に炭酸飲料の一種だと思っていたのだ。
ふと、そんなことを思い出した。

そう考えると、ジンジャーエールほど嘘っぽい飲み物はない。
イメージが、本来のものから乖離しているのだ。

そして、掲出歌。
え?ジンジャーエールとおにぎりって合うの??
…なんて思う人はもうあまりいないかもしれない。
だって普通にコンビニで買ってもおかしくない組み合わせだから。
だけど、いざこう言葉にされると、何か落ち着かない。

本能のまま、食べたいものは食べたい…そんな犬と向き合う「私」は、対照的な存在だ。
握り飯とジンジャーエールを一緒に食べると美味しい…わけではなく、
ただ、がつがつと義務のように食べる光景。

現代的と言えば現代的だけど、でも、人がものを食べるって一体どういう事だろう?
そんなことがふと頭をよぎる。

だけどその疑問すら、あっという間にジンジャーエールで流されてしまう。
仕事もあるし、義務もある。とにかく忙しい。
いつの間にかそんな原点すら消えているのだ。
そう考えると、ジンジャーエールってなかなか現代的な飲み物だ。

そして、作者にはもうひとつ、ジンジャーエールの歌がある。

 借り物の言葉ばっかり口腔にジンジャーエールを含ませてやる

ニセモノは案外心地がよくって安心してしまうものだ。


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創つくる(河北新報1月28日夕刊)
【 2014/01/29 00:42 】
河北新報1月28日夕刊カルチャー面「創(つくる)」で取り上げられました。もし手にする機会がありましたら、読んでいただけたら嬉しいです。

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