うたよむブログ

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口に鼻に泥の詰まりし遺体あり…(高野公彦)

口に鼻に泥の詰まりし遺体ありその気高さは人を哭(な)かしむ  
高野公彦/『赤卒』H23角川短歌6月号

この歌を読んでどう思っただろう。
凄惨な情景がひしひしと伝わって、印象を強く受けたか、
あるいは、
おそらく遺体を目の当たりにしていないはずなのに、こんなに高揚した詠み方でいいのかと疑問を持ったか。

短歌っていったい何なんだろう。本当に不思議なものだ。
私は両方を感じてしまって、今もこの歌に向き合うとどうも落ち着かない。

私は短歌を詠むときに作り話だってするし、嘘をついてしまうことだってある。
事実そのものを伝えたいからではないからだ。

だけど、東日本大震災の歌については、現実のまましか詠めない。
津波に遭遇しないまま津波を詠むことに罪悪感を覚えてしまうのだ。
そして、鑑賞もその延長線上で、そのような歌に出会うと疑問を感じてしまうのは否めない。

 空襲の夜の紅(くれない)にさざめきぬ一升瓶の底の米たち  (笹公人)

戦争を知らない世代が戦時下を詠んだ、私の好きな歌である。
東日本大震災では見てもいないのに…と疑問を持ちながら、戦争を経験していない人の戦争の歌は受け入れてしまうという矛盾。
これはいったい何だろう。

大地震を経験しなかった人や後世に伝えるためには、本当に見たのか見ないのかではなく、東日本大震災があったこと、それがどれほどのことだったのかをいかに伝え継いでいくかが重要なのだろう。
そしてもう一つ、あくまで芸術として伝えるという側面も外せないのだろう。そうでなければ「震災の記録・日記」で充分なのだから。
しかし、この二つの短歌の側面をすんなりと受け入れるためには、もう少し時間と距離が必要なのかもしれない。


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